2011年5月アーカイブ

昨日、一昨日とアーバンパーマカルチャー講座を大坂の野里という街で開催した。この町はもともと大坂の中では農村で問屋街に野菜などをおろしていた場所だったと聞いているのだが、今でも古い大きな家が点在しており、道路の作りや、車の通ることの出来ない路地がたくさんあるとこなど生活感のある大坂の下町の典型的なところだ。関西のパーマカルチャースクールの卒業生であるご夫婦が都会の中でもパーマカルチャーの拠点を創りたいとの希望からここで講座を開催しながら、庭の整備なども行って行こうと考えていた。しかし、大都市の歴史ある場所が多くそうであるように、この野里も空洞化、あるいは過疎化が進んでおり、あまり若い人が行き交う姿を見かけることもない。その現状を象徴しているのが、野里商店街で、古く雨漏りが所々でするアーケードの両側になるぶ商店の多くは週日シャッターが降りたままになっており、電柱に表示された店の名だけが、そこになにがしかの店があったことを示している。その商店街の入り口に野里食堂という大衆食堂があった。地元のおばちゃん達が暖かく仕切る安くて美味しい店で、打ち合わせなどで野里に行くときにはほとんどここで昼食や夕食を取っていた。 
 5/29日講座の昼に参加者と一緒に昼食を頂きに行くと、店の入り口に張り紙。「5月30日を持って閉店することになりました。長年の愛顧に感謝します」とある。「5/30って明日だよな。え~」と驚いた。店の中には長文の張り紙。「20数年にわたりこの地で営業して参りましたが、社会の変化により人が減り、商店街としても衰退していく中、数々の工夫を施して参りましたが、万策ここに尽き、閉店することに相成りました」とある。地元の人達、特にご老人達がたむろし憩いの場となっており、何時行っても多くの客がいたのだが、それでも万策尽きたのかと、しかも、1日前の告知とは、う~ん」と唸ってしまった。実はこの商店街の活性化の計画をつくることも講座の一つの柱になっている。産業構造の変化やそれに伴う人の生活様式の変化によって、地域の発展と衰退が非常に速いテンポで起こっているのが現代社会の大きな特徴の一つだろう。流通や交通機関の発達は人の生活と地元の結びつきを希薄なものにしてしまった。時代の波に乗れない地域や企業は廃れていくのが当然だといった風潮もある。運命と諦めるのも一つの在り方だとも思う。「降りてゆく生き方」という映画に共感を覚える人も多いようだ。しかし、人も地域も行き続けていくことが大切だと思う。生き続けることで多様性が保たれ、様々な変化に対する対応力も保持されるからだ。万策尽きたら、1万1つ目の策を考えればよい。野里の商店街にもう一度人の笑い声が溢れるにはどうすればよいか。本気で取り組んでみようと思う。
 福島第一原発1号機の核燃料が実はメルトダウンしていた。とのニュースを読んで笑ってしまった。「あーやっぱりそうだったんだ」と思いながら、それでも、水蒸気爆発を起こすこともなく、いわゆる最悪のシナリオをまさしく偶然にも免れていたことに、どこか「こういう意味だったんだ」と納得し、大きな呪縛から解放されて心が軽くなるのを感じての笑いだった。 

 国という大きな権力にしても、原発という科学と金のもとに集まった専門家集団にしても、結局理解し、制御できるものはごく限られた範囲のことでしかなかった。多くは偶然の積み重ねで、今回格納容器が爆発により破壊されずに済んでいるのは単なる幸運のおかげに過ぎない。アメリカやフランスといった原発推進国や世界最大の原子力企業のアルバが一体福島原発事故を収束するために何をしたのか未だに明らかではないが、結局の処、意図せずに僅かばかり溜まっていた格納容器内の僅かな水のおかげで、大惨事が免れたに過ぎない。目の前に突きつけられこの現実は、本当に大事なことは、自らの手の届かないところで決定されていることを明らかにし、科学的、あるいは科学に基づく予測を行動の拠り所とする18世紀以来の思考方法と決別する時期が来ていることを示している。経験と勘という、現場あるいは現実と向き合う時間の積み重ねにより始めて人間の中に芽生える判断と人間本来の行動の基準、それに基づく実の学こそがこれからの科学に代わる指標になっていくことだろう。原発がもし収束を迎えることが出来るとすれば、それは科学者や政治家が考える方策ではなく、現場で生きてきた人が命を投げ出し、自らの熟練と勘によって一つ一つ破損した箇所を直していく作業に依ってのみ実現することだろう。そして、それはこれからの私たちに日々の現実との向き合い方を示している。新しい時代の幕は開けたのだ。

 自らの過ちを認め、それを正して変化へと向かうことが出来ない者を愚かと言う。原発そのものの危険性を認めることなく、浜岡原発を特殊例として、広島、長崎、そして今回の福島による被曝の経験を省みることなく、原発を推進していくことには、それに関わる者の愚かさしか見えてこない。渋谷において多くの人々が参加したデモを報道することなく、名古屋の僅かばかりの参加者のデモを報道することで、国民の側からの原発反対の意思を矮小化しようとする朝日新聞もまた、権力にしがみつこうとするマスコミの愚かさを示している。自らの愚かさを、言い訳と、ポーズと嘘と、目をそらすことで糊塗しようとする原発を推進して来た政府、行政、東電、マスコミ、御用学者の姿は醜さ以外の何物でもない。

 日本の国民は愚かではない。愚かでないからこそ、今回の誤りを正して新しい道に進もうとしている。愚かな国家は国民の声を聞き自らを正して、エネルギー政策を含めて新しい道を模索していくか、それとも消えていくかしかあるまい。
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