地震に驚いて家を飛び出したのは初めての経験だった。外に出ると電信柱が揺れており、倒れるのではないかと身構えた。揺れが落ち着くのを待って近くの保育園を見に行くと子供達も先生達も外に出ていた。そこでラジオを聞いていた人から震源が東北と聞いて、地震とその被害の大きさが直感されて膝が震えた。そしてすぐに原発に起きていることを予感して辺りの風景が色あせていくのを感じた。
直感や予感は全て現実のものとなったが、未だ終わっていないという予感は今もあって、日常の作業やこれから行おうとして準備してきた企画の意味の置き所が見つからない。
それでも、今回の地震によって、これまで隠されていた様々な社会の仕組みが透けて見えてきたことで、これから行うべきことの方向は明らかになり、その意味の重さは徐々に胸の中に落ちてきているように思う。
一つは、総中流のように見えていた日本社会にもはっきりとした支配者層があり、それは官僚を主体として、エネルギーや産業界、そしてマスコミまでが一体となって、自らの利益を最大化するために、国民から税金を搾り取るだけでなく、教育や情報操作によって、国民を自らの都合がよいように作り上げてきていることである。テレビや新聞が行う原発についての報道は、明らかにこの支配者層の意図のみを反映したものになっており、国民の心配や関心に応えるものではないのだが、そのことがまさしく、支配者層が国民をどの様に考えているかを如実に反映していると言えるだろう。原発が危険だとうすうす感じながらも、マスコミを通じた官僚とエネルギー会社を中心とする企業体の安全だという宣伝を信じ、未だに「安全な」原発は必要だと考えているものが過半数を占めている(東京新聞の世論調査による)という現実に支配者達は嘲笑しながら頷いていることだろう。
即ち原発を止めることはこの様な社会の構造を崩して、一から国を作り直すことを意味している。それなくして原発を止めることは出来ない。しかし、それはこれまで歴史的に行われてきた暴力的な革命を意味するものではない。国民一人一人が自らの本能と能力を信じて、権力者の宣伝に惑わされることなく、彼らが作り上げたシステムから離脱し、かわって、信じることが出来る仲間達と地域の自然と人の資源を生かし、支え合うシステムを作り出すだけでよい。端的に言えば、マクドナルドで何処で創られたかも分からないハンバーガーを買うのではなく、地本で採れた大豆で創られた大豆バーガーを料理の上手な友達から買えば良い。そうすれば、その払ったお金もいずれ自分の元に戻ってくる。品物がなくなったスーパーやコンビニを嘆いたり、それが生み出す恐怖で買いだめに走る必要などない。周りでパンを焼いている人を探せばよい。野菜を作っている人に声を掛けてみればよい。
地震という大きな力は人間の弱さ、不完全さをいつも露わにしてくれる。そして、人はこれまでもそれをよりよい社会や自然との調和をつくり出すことのよりよい機会として利用してきたのだと思う。新しい歴史を作っていこう。