2011年2月アーカイブ

祝島

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「うんにゃ、うんにゃ、そっちじゃね。ここに来る途中にあった両方に海が見えたところを上に行くんじゃ」

 田ノ浦への道を尋ねた私に、海の町の奥さん方によく見かける帽子を被ったおばあちゃんはそう教えてくれた。道を戻ってしばらくすると確かに両側に海が見えるところに出た。どちらの海も春の光の中でうららかにたゆたっている。

 しかし、車のハンドルをほとんどUターン気味にきって坂道を上ろうとすると、警備会社の服装をした人に車を止められた。「この先道が狭くて、向こうから3台ばかり来るから、ここで待っていた方が良いと思うんだ」とかなり年配の方だ。他にも3台車が止まっている。車の後ろには工事準備車とステッカーが貼ってある。待つこと5分ほどで車3台が通り過ぎ、先へと進む。10分ほど更に曲がりくねった坂道を登り下りしていく。所々に覗く、島々と海の織りなす景色が美しい。

 徐々に路肩に止まっている車が増え、やがて車が数珠つなぎに停まっているところが田ノ浦海岸への入り口だった。一緒に走ってきた他の3台の車は、原発予定地を囲った柵の中へと吸い込まれて行った。私たちも空いているところを見つけて車を止めて海岸へとつづくと思われる道へと入る。途中、展望台と書いた看板があったので、もともとは展望台に続いていたのだろうが、その道は予定地の柵の中に消えていた。代わりに新しくつくったと思われる、「応援に来ていただいて有り難うございます」との案内が入り口に出ている柵沿いの道を行く。途中中国電力の立ち入り禁止の看板がいくつも立っている。道の途中に小屋があり、こちらは手書きで「私有地立ち入り禁止」と書いてある。これはどうやら途中に書いてあった団結小屋のようだ。

 そこから道を海岸へと下っていくと、途中から建設予定地の様子がはっきりと見えるようになる。海岸にはたくさんの人がいるようだが、衝突や対立が起こっている様子はない。海岸へ着くと、紺の制服に身を包んの人達とその人達とは明らかに違う自由な服装の人達。そして、地本の方とすぐに分かるおばあちゃんやおばちゃんそしておじいちゃん達。違和感と緊張感の入り交じった不思議な雰囲気の中、それでもそれらの人々の向こうに広がる美しい海の景色に息をのむ。陸の方に目をやると、もとは樹木に覆われた小高い丘であったと思われる場所ではトラックが走り回り、ユンボに削られてむき出しになった斜面から土を運んでいる。そしてコンクリートで固めた道路とそれらを囲む銀色の柵。これほどの対照的な景色を目にすることも希だ。

 原発については既に議論はし尽くされていると思う。結論はその廃棄物も含めて人間の現在の知恵と力では運転も処理もできないものであり、必ずや将来に禍根を残す代物であるということ。即ち、ただ現在という一時ののそれも一部の人間の利益−多くのエネルギーを必要とするのは権力者のために多くの利益を生み出そうとする大企業である−のためにその様なものをつくり、今後数百いや数千世代にわたって私たちの後を継いでいく全ての生命を絶滅の危機にさらしてしまうと分かっていることが、今現在、そこに生きてきた人々の生活を破壊しながら進行しているということだ。

 今回その現場に身を運んで目の当たりにしたのは、美しいものが壊され、醜いものがつくられていると言うこと、極めて単純であり、それ故に決定的であることが不可逆的に進んでいる。海と島と水と生き物とが織りなす美しさは、36億年にわたる生命という奇跡が創りだした、人間の力など決して及ぶことがない完璧さを備えている。それは決して人間の浅はかな考えと一時の都合などによって壊してはならないものだ。壊してしまえば、二度と蘇ることはない。この透き通って清らかな水に満ちた海を壊す権利は何ものにもありはしない。どんな言い訳も通用することはない。しかも、海という、海岸という、全ての命あるものの共有の財産が分断され、あるものの利益に供され、他のものがそこに入ることさえ許されないなどと言うことは、全ての生き物に対して自然により与えられているそれぞれの生存権を危うくするものであり、この様な行為はどの国のどの様な法律を持ってしても正当化されるものではない。ただ、自ら生き、そして次の世代にその命を引き継ごうとしていくものにのみ、そこに生きる糧を得る権利が生じ、自然に抱かれる安心感の中で、人同士と、そして人と他の命との繋がりが生まれ、人間を含めて全ての生命が生きることが出来る空間が生じる。祝島のおばあちゃん達の明るさとたくましさは、その命の豊かさから生じており、大地と、そして海との揺るぎない繋がりが、この反対行動に対して正当性を付与している。この海と山の所有権を主張することが出来るのは断じて、電力会社ではない。

 望むらくは、原発について真摯に考える全ての人があの現場に立つことである。ネットの上で泣き言を言っていても何も変わりはしない。万の人があの場に立つことで、大きく流れを変えることはできるのだから。

本屋

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久しぶりの大きな書店。

書棚の間をうろつき、背表紙に目を走らせてみたのだが、前には感じられたワクワク感がない。本に限らず、都会に出かけていって、様々なお店を見て回る時に求めているのは、思いがけない出会いだろう。頭の中で巡らしていた様々な想いや、正体の分からない不安に、満たされる事のない期待、解決の糸口さえ見つからない問題。そんなものをいっぱいぶら下げながら、物と人が溢れている都会をうろうろすることはどこか狩猟に似ている。探しているものがそのままに見つかることはほとんどない。しかも、そのままに見つかってもあまり喜びはない。本当の答えはいつも思いがけないときに、予想もしていなかった形で現れてくるのだが、それが最上の喜びを与えてくれる。そして、本屋は最高の猟場なのだ。

 しかし、この何日かの間にうろうろした本屋はその様なわくわくを感じさせてくれる場ではなかった。大きな書店なので、求めている本がはっきりしているのであれば、それを見つけることは出来るのだろう。本も見事に分類されており、とても見つけやすくなっている。しかし、つまらないのだ。語りかけがない。「おまえが探しているのは実はこれじゃないの」とインスピレーションをはじいてくれる本も、本達もない。それは、多くは本を買う者の責任なのだろう。実用性や娯楽性を求めて本を買うことに異存はないのだが、自らの内側に触発される部分を持っている読者が少なければ、それを目的あるいは喜びとして本を著す者も少なくなっていく。これまで名著とされてきたものの多くは、分類を拒み、時代を超えて普遍的な解答を示してきた。その普遍性とは、唯一を意味するのではなく、むしろ、それを読む者の中に一つ一つ違った形で現れる事を意味する。しかし、現在本屋に並ぶ本の多くは、ただ一つの解答しか示そうとはしない。それも、権威や常識に決められた解答でしかなく、それは決して個々人の創造性を触発しはしない。

この様な読む人と本の関係が本屋をつまらなくしているのだろう。本屋は本を売る場所ではなく、本を探す空間であることがその本来の存在の意味だと思う。そのためには、本を読む人の要望や欲求に安直に応えるのではなく、自らの主張を持って訪れる人を触発する場であらねばならないと思う。本屋は実際その本屋が存在する地域や国の文化性を示している。本屋がつまらなくなってしまうことはその地域や国の文化が停滞していることを意味している。わくわくするような本屋さんがたくさん欲しい。


 昨年来建設中の温室兼寝室の屋根張りをしている。波板や板葺きの屋根作りは、曲がりなりにも経験しているが、今回はガルバリウム鋼板を用いた一文字葺きの屋根で、初めての経験。しかも結構きちんとした屋根にしようとしているので、部品もそれ用の加工したものを購入して、あちこちの屋根のつくりを調べながら試行錯誤の繰り返し。しかも、既製品なので、サイズが合わなかったり、天窓などもつくってしまったので、何処を調べてもその対応策を見つけることが出来ず、次々と起こる不測の事態に頭を悩ましている時間の方が、作業している時間よりも遙かに長い。ここはこうなってしまっているから、叩いて、曲げて、切ってとコツをつかんだようでいてつかみ切れていないもどかしさに、心が折れそうになる。それでもいくつかの難題をクリアしながら、天気に恵まれたこともあって、漸く屋根全面の2/5位の屋根張りが完了。

 多分職人さんに頼んだら一日も掛けずに終わってしまうような僅か5坪ばかりの屋根張りだが、その作業は新しい経験ばかり。直線だと柔らかくて紙のように切れる鋼板がちょっと曲げると堅くてとても切れなくなることや、ツカミハシという道具の恐ろしく役に立つこととか、重ね方、叩き方、厚さの調節などなど実際にやってみないと分からないことや、思いがけない問題に対する解答を出していく楽しみなどが満載だ。

 この様な経験知は決して百点満点の解答ではない。同じ失敗を繰り返すことはないにしても、ある場合にうまくいったことが、他の場合に同じように通用するかというと、そんなことはほとんどなく、その状況に応じて必ず新しい工夫が求められる。それは自然や自分自身と向き合ったときの常識といっても過言ではない。ただ、解答を見つけ出すための思考方法や身体の自然な動きといったものは、思いがけないほどに後になって役立つ。学ぶとは人やあるいは情報から解答を得ることではあるまい。解答を見つける過程に入り込むことだろう。インターネットの発達などにより、あまりにも安易に、しかも楽に解答を得る事が出来ると勘違いしてしまっている人があまりに多いように思われる。それは、実際には解答を見出す能力をますます貧しいものにしてしまっているだけではなく、創造や表現という最高の喜びを自ら遠ざけてしまっていることにもなるだろう。取りあえず、それまでにしたこともなかったことに挑んでみよう。百聞は一見にしかずと言うが、百見は一体験にしかずである