先日電話の吊り広告だったかと思うのだが、三谷某という映画監督の写真が載ったパナソニックの広告に「僕はエコ意識はない方だけど、エコナビを使っていると知らないうちにエコしてる」といった宣伝文が掲載されていた。宣伝文句に目くじらを立てるほどのことはないとも思う。また、今更エコの本当の意味は何かと論じたところで、何かが変わるわけではあるまい。エコという言葉が既に企業や政府の本当の意図の隠れ蓑の役にしか立っていないことは既に多くの人がうんざりするほど思い知らされていることだ。しかし、この広告を見たときに、それだけではない、何かもっと大きな違和感を感じた。それは、これまでの価値観を大きく変える可能性を持っていた環境問題(という概念)が、結局は権力が自己強化するためのひとつの方策に堕して、終焉を迎えようとしているという、大切にしていたものが何ものかに掠め取られたような感覚だった。
私にとって、エコロジーとは全ての命を永続性という文脈において関連づけ理解するという地球あるいは宇宙をも包括し得る学であったし、今もその位置に揺るぎなく在り続けている。そして、その根底を成すのは命の多様さと自立性である。それはそのまま人間そのものにも当てはまるだろう。プラトンは既に「各人が他の人々に役立つような仕方で、(つまり、自分が属している社会全体に貢献するような仕方で)、自分に生まれつき適正のある仕事を成しているときに、社会は安定した組織を持つことになること、そして、多様性のみが変化や進歩をつくり出す」事を喝破していたという。自らが行うのではなく、システムや技術に依存することは多様性を喪失し、また自らが担うべき社会における役割を放棄することになる。これは、エコロジーの基本的な考え方とは全く反対側の位置にある。日本が国際的な経済活動の中心から急速に外れつつあること、そして、経済に変わる価値観が、未だに政府にも官僚にも、マスコミにも、そしてそれに対して異を唱えることもない私たち国民自身にもないことは日々の全ての局面において明らかであり、また多くの人が痛みを持って実感していることだろう。最近顕著になってきているレアアースやリン、カリの肥料の輸出規制の強化は、グローバル経済が創りだした依存システムがそこに依存し続けることのできる人間の範囲を絞り始めていることを意味する。経済を至上とする価値観を変えることが出来なければ、近い将来において戦争は避けられないものとなるだろう。
エコではなく、私たち自身の日々の関わりとして自然とそして人を捉え、そして自らの知恵と判断によって日々の生活を創り上げてことを諦めることなく続けていこう。そして共有できる価値観を、決して権力に掠め取られることのない価値観を創り上げ、それを全ての動きの中に落とし込んでいくことこそ、この暗澹たる予感を振り払う唯一の方法なのではないだろうか。