パーマカルチャーとは一つの学である。実と知が相互に補完し合い、また、高め合う形で統合された学である。パーマカルチャーというと農業の一種であると受け取る方が多いと思うが、決して農業ではない。日本語では百姓という概念がある。即ち、身の回りのことを全て自分で面倒見る。それも、自分のことだけ、あるいは、今だけではなく、集落のことやこれから生まれ育つ者のことも考えて、今自分が成すべき事をする。時間的、空間的な繋がりの中に生きること、生かされていることを実感しながら生きる人の生き方だと言えるだろう。ただ、百姓は、己と自分が生きる空間としての集落やコミュニティの中にある経験とその蓄積としての文化の中で、理解よりもむしろ、習慣や相互関係の中での体得を基盤としているために、自らの成していることの意味を自らの生活を超えた視点から理解し表現することにまで行き着くことが難しい。このため、多くの知恵を蔵しながらも百姓が学となることはこれまでになかった。一方、パーマカルチャーは、グローバルな視点と科学という言葉を持つ現代に生まれたことで、世界に生きてきた百姓の知恵を体系化し言語化することで学となった。そして、学としてあることで、現在学校という場において行われている教育が何ものであるかを明らかにしている。それは、学校における教育が、既に実からも知からも離れて、利のためにあると言うことだ。デューイはその著「民主主義と教育について」で、家族やコミュニティでの共同生活から得る体験に基づく学習と学校における制度的な学習を区別し、そのどちらにも人間形成における必要性を認めているが、実とは前者であり、知とは後者であるとして間違いはあるまい。これら2つの学習の場と在り方があることは、人間形成においてはいくつかの例外を除いて近代及び現代に限られることで、大きな利点であると言える。しかし、現代の学校教育を見れば、このいずれも行われてはいない。地域に伝わる実の知恵の集積としての文化から生きる術を学ぶこともなければ、人類の経験と思考の集積として存在する知を全ての現象の意味と真理を理解し、更なる探求の礎とすることもない。単に目先の利を得るための小賢しい方法や技術に触れるだけの場に過ぎなくなっている。
これに対してパーマカルチャーは学として異を唱えている。真理とは常に自然が持つ無限とも言える時間の積み重ねの中で行われてきた試行錯誤の結果として存在し、それをひもとき、更なる高みへと導いていくために人の理性がある。この2つを極めることこそが学問であるといって差し支えあるまい。惜しむらくは、現代の社会の中で小賢しさを身につけた人は、己の小さい世界の中で、全てを位置づけ、それからはみでるものの存在を許すという器量を持たない。このため、パーマカルチャーもまた、農業や自然農の一部のように扱われようとしている。勿論パーマカルチャーは完全な学ではない。未完成の学である。学びながら、しかもそれを成長させていくことができるものだ。パーマカルチャーという視点を持てば、現在私たちは実と知を共に自らの糧としながら、世界を理解し、その中に自らを位置づけることが可能な地点に立っていることに気づくだろう。パーマカルチャーはビルモリソンとデビッド・ホルムグレンが提唱したものだが、既に2人が築き上げた枠をはみ出し大きく成長しており、パーマネントカルチャーとして、多くの人の思いと試みを飲み込みながら、個人を超えた指標となっている。現代は新しい学を必要としている。パーマカルチャーはその基軸の一つを成すものなのだ。