責任を負うことがないところで、ものを言うのはたやすい。それは、辞任しまった首相にも言えることだが、そのようにしか政治に参加することが出来ない私たち国民自身にも言えることだろう。例えば普天間基地の移転にしても、沖縄が犠牲になっているのは良くないと言いながら、誰も自分のところで引き受けようとはしなかった。基地そのものの存在が非であると思うのであれば、日米安保協定について議論し、不必要であることを多くの国民が認めるのであれば、それをアメリカに通告すればよい。アメリカが民主主義の国であろうとするのであれば、それは受諾せざるを得ないはずだ。多くの人は何故批判者にとどまろうとするのだろうか。確かにその方が楽で、しかも優越感を味わう事もできる。しかし、批判者が何かを作ることはない。ましてや時代を作ることなど決してないだろう。批判者ほど、一方で権力に依存して、権力を腐敗させるものもない。批判者ではなく、行動者であること。ガンジーの不服従もまた批判ではなく、行動である。行動は人を育て、そして共に行動することはお互いを育てる。政治が選挙だと思っている政治家に政治という行動はない。その様な政治家ばかりになってしまったのもまた、国民の側に共に行動し、育て合おうとする意志も実際の動きもなかったためだろう。それは国民を出来るだけ政治から遠ざけておこうとする愚かな政治家と公務員にその責の多くがあるにしても、その災いは現在私たちに降りかかってきている。昨年、選挙という行為によって一つの変化をもたらしたのは事実である。その変化に対して責任を持つのは実は政治家や政党ではなく私たち国民自身だろう。民主党が出来ないのであれば、あるいは既存の政党や政治家が出来ないのであれば、新しい政治体制の樹立も含めて私たち自身が知恵を出し合って行えばよい。幸いなことに、政治も経済も超えて、すでに文化づくりの芽は日本各地で出始めている。多くの心ある人達が、人の生きる場としての文化の大切さに目覚めて、自らの生活によって、新しい文化を築き始めているのだ。テレビや新聞の報道に引きずられて、時間を無駄に過ごすのではなく、新しい変革に向けて、多くの人と語り合おう。そこに本当に望む未来の姿は見えてくるだろう。現在求められているのは私たち自身が育て合うことだ。
参加あるいは共に育つこと
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