リアリティ−
考えていることが明確な形を成していないとき、自分の関心の焦点にあるものがぼやけてしか見えないとき、表現する言葉が見つからないとき、取りあえず、本屋や図書館に行ってぶらぶらしながら、引っかかってくるタイトルを探してみる(最近の官製の図書館は国民の愚民化を目指していることが露で、刺激的な本や先進的な本を見かけることがかなり難しくなっているのだが)。取りあえずそれで何冊か選んで、目次を見て、予想ができないことを基準に振り落として(内容が予想できるものは選ばない)、2〜3冊一度に買ったり借りたりする。このような本選びでは1冊だけということはまずないが、ツンドクとなるだけの大人買いなどもしない。家に持って帰ると、取りあえず全ての本の最初の2~3ページを読んで、後は目につくところに放っておく。たいてい2週間程すると、何故その本を選んだのかがナントハナシにわかってきて、漸く読み始める。それでも、読んでいる内容と本に求めているものが一致したと感じるまでにさらに最低一週間は必要で、長いときは一年間もかかる。一致すると一気に読み、「あっ、これこれ」と思うところにアンダーラインを引くか、書き写しておく。アンダーラインを引いたセンテンスが多い本程私に取ってはありがたいものになる。今読んでいるハンナ・アレントの「革命について」はほとんど全てのページの1/3にアンダーラインが引いてある。そのなかでも「うーん」と思ったのが次の一節。
「人間の精神は、リアリティを包括的に理解し、それと和解するという、その最重要の課題が危うい危機にさらされている場合には、必ず、ほとんどどんなものでも受け入れてしまうのであろう」
ひっかかっていたのは、環境や精神世界に関心のある人たちの、何でも受け入れて、争いを起こさないという姿勢。それは一見受け入れているようで、実は何も受け入れずに自分の世界に閉じこもっていることではないかと思われた。彼らは実に多くの情報を持っているのだが、その人自身のリアリティが見えてこない。生きるというリアリティのうちに誰しもいるはずなのに、私がそれに触れることができないのは何故なのだろうと、それがいつも不思議だった。
確かに、情報があまりに多く、しかも意図と情報の境目が非常に曖昧になっている現状においては、目の前にあるものでさえもリアリティであることが疑わしい。例えば、安全では決してないと理解しているものに安全というラベルが保証書付きで張ってあるとき、リアリティは自分の理解のうちにあるのか(その理解を保証しているリアリティはあるのか)、それともそのラベルにあるのか。少なくともそのもの自体にはないということは明らかである。そのもの自体にリアリティを取り戻す唯一の手段はそれを自分自身の手で作ることしかあるまい。その過程で、リアリティは現れ、それに関わるもの(生産者)に包括的な理解を促す。和解とはその理解に基づいて己と向き合うことを意味するだろう。
全てを受け入れることは、楽なことだが、それはリアリティからの逃避でしかない。しかもそれは決して成功することのない逃避なのだ。