2008年12月アーカイブ

 空間を作ることは楽しい。子供の頃に砂場でトンネルを掘ったり、がらくたを集めて隠れ家を造ったりした経験は誰にでもあるだろう。宇宙という無限とも言えるほどに広がった空間から自分の空間を切り取ってみる。それだけではなく、その空間と対話しながら、自分の価値観や生き方を糧として空間を育てて行く。家にせよ、畑にせよ、一番の楽しみはそれらを空間として作り、育てて行くことだ。そして、良く作り、育てられた空間には、ただ、「住む」とか「耕す」と行った言葉では表現され得ない、思いや時間の痕跡がある。そこに入り込んだ人たちは、美しさや、心地よさのなかにそれらを感じ、考え始める。人間が関わった空間は本来そのように作られ、そのような役割を果たしてきたのだろう。古い民家や、その軒先の菜園、山の谷間に石積みをもって作られた水田などが伝えているメッセージの豊かさは圧倒的だ。

 一方消費され、衰退して行く空間もある。特に販売を目的に生産された空間は、それが生産された直後から衰退して行く。それは単に資材が劣化して行くということだけではなく、その空間が「断ち切られた」空間であることことから生じる必然である。その空間が持つ時間的(歴史的)な意味合いからの断絶、周囲の風景と行った空間的なものからの断絶、その空間を作ったものと使うものの断絶、そして、何よりもその空間を使うもの(消費者)の、生産からの断絶。これらの断絶によって、比喩的に言えば、その空間は根を張る場も、新しく芽を出す余地もなく、否応もなく枯れていってしまう。

 このところ古い建物を利用あるいは再利用している空間に出会うことが多い。ただ単にその古い趣を利用しているだけのところもあれば、そこに工夫や意味を加えて、新たに成長し始めた空間もあった。可能性と魅力を感じさせてくれたのはもちろん後者の空間だった。

 空間は生産を行う場あると同時に生産される対象でもある。最も生き生きとした場は、常にそこにいる人に取って自らを表現しながら育てて行く場であり、しかも、様々なものが生産されている場であろう。消費され疲弊した場はそこに身を置くことすら辛い。もう一度創り育む場を身の回りにもつこと、そして、それを行うことのできる人間になることが求められている。