ゴールデンウィークに開催したパーマカルチャーデザインベーシックコース、約してゴールデンコース、11名+αの参加を得て気持ちよく開催しました。詳しくはヒナタの食堂のHPをご覧ください。キッチンスタッフを勤めてくれた(美味しい食事本当に有り難う!)チユキが食事を中心にまとめてくれました。それ以外の日記もとても素敵です。
ヒナタの食堂→http://hinatanoshokudo.com/
復活したパーマカルチャー関西の風力発電機「もんじゅ」。試行錯誤を積み重ねて本家のもんじゅとは違ってちゃんと発電する発電機となった。格好も良くない、発電量も少ない。でも、新しいエネルギーづくりの方向性は大きな発電システムを作ることでも、既成の発電装置を組み合わせるのでもなく、一人一人が自分の周り見渡して、資源を見つけて、それを自分の創意工夫で実体化することで間違いはない。一人一人の中に未だ眠っている小さな力をカタチにして行くことで、大きな変化は起こって行く。この風力発電機は、茫漠と淀んだ現代の社会と人の心に投げ込まれた小さな石として、これからゆっくりと大きな波を起こしてくれるだろう。
http://pckougo.exblog.jp/
梶井基次郎は桜の下には死体が埋まっていると書いた。そのこの世のものではないような美しさは違う世からやってくるのだと。ここの桜は天に向かっている。




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3年前に11期生が作り始めた温室「湯たんぽ」。ドアをつけオイルステインを塗って外装が漸く終了。今年の夏野菜の苗はここで育てる予定。暖かいって嬉しいね。




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5年越しのアースバックハウスづくり。扉がついて漸く完了。壁の崩れたところなどの修繕が必要ですが。
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つながりと乖離 「今日最後のヒューマンチェーンです。皆さん手をつなぎましょう。」の呼びかけに左隣の女性はそれまではめていた手袋を取り私の左手と手をつないだ。右の手にはフランスからの留学生の手のぬくもりがあった。突然降り出した雨の中で1万人の人たちが手を繋いだ。目の前には薄暗い空に国会議事堂が黒い陰を映し出していた。その前には沢山の警察官が並び、警察の監視車が人の輪を見下ろしていた。人の手はそれでも、アスファルトの上を長く歩いて来て固く棒のようになった足の疲れをいやすぬくもりを1万人のぬくもりを伝えてくれていた。
 日比谷公演から東電前を抜け、霞ヶ関の官庁街を通って日比谷公園まで戻るおよそ2時間程の間、この一年にあったことを振り返りながら歩いた。それは日本中でいや世界中で多くの人々の胸の中に自然と沸き起こったことだっただろう。多くの命が失われ、多くの町が破壊され、多くの人々の生活が失われ、そして、地球上の全ての日常が奪われた1年前のこの日から、全ての人々の中であたらしいよりどころを探す、行き先さえも分からない旅は始まったのだ。一緒に歩いている人に話しかけてみる。「今日どうして参加されたのですか」。一人一人の答えの表現の仕方は違っていても「自分に出来ることをしたかった。未来のために今私に出来ることを、私の気持ちを示したかった」との想いは全ての人の胸の中にあった。
 メガフォンを渡され、何をいうべきなのかすぐには浮かんでこなかった。ゆっくりとわき上がって来た言葉は「大地と、水と、空気を取り戻したい」という想いだった。それをそのまま言葉にすると、周りを歩いていた人たちから「よかったです」と。想いは同じだという安心感が身体の中で一つの力になるのを感じた。
 黒く聳える国会の中には議員など誰もいない。国立劇場などという政治とは関係のない場所で国民の参加もないところで、儀式としての慰霊の催しが行われて、政治家のほとんどはそちらに行っていたことは後で知った。東京電力も、財務省も、環境省も、一部電気がついている部屋はあったが、全て門を閉ざしてひっそりとしていた。
 国民の声を聞くことのない政治家と官僚。彼らが決定しようとしている未来に私たちの声が反映されることはない。しかし、彼らの間違いの責任を負わされ、その被害の中で苦しんで生きることを余儀なくされるのは私たちだ。彼らが多くの情報を握りつぶしたことで私たちの命や健康に及ぶ被害がどれほど大きくなったかが明らかになってくるのはこれからだろう。
 つないだ手は温かかった、今感じる事が出来る希望はそこにしかない。皆で手をつなごう。
 台所の大掃除など何年ぶりだろう。ホコリが溜まっていたり、落ちたものがそのままになっていたりして、ちょっとすねている感じ。そうだ,長い間面倒見てなかったからなと思う。人の気持ちの行き届いた場所は、そこに居るだけで、他の人が居ても気持ちいい。ちゃんと手をかけ気持ちをかけないと、だんだん居心地の悪い場になって行く。窓ガラスも汚れをひとつひとつ落としていく。床はもちろん雑巾がけ。丁寧に拭いて行くと結構あちこち痛んでいるのに気がつく。水があたるのか空気の流れが悪いのか。あちこちが苦情を訴えている。掃除はいい。ゆったりと対話しながら進めて行く。

 宇宙は収束と拡散を無限なほどに繰り返した結果、一つの意志である生命を持つようになったのではないか(生命は繰り返される脈動=振りから生じているのだから)と思う。そして、物理的法則に従って行う機械的な繰り返しではない自らの在り方を望んで(意志にとって決定された未来ほど絶望を感じさせるものはない)、実体のある生命を作りだし、自らの新しい可能性を託したのではないかと思う。
 その誕生から38億年たった今も、生命は宇宙という無限とも言える広大な空間の中ではほんの小さな在るかどうかさえも分からないような存在でしかないのだが、その中に、劣化ではなく、成長と進化という宇宙のそれまでの方向とは逆の方向に動くエネルギーの動きを作りだし続けている。この動きによって、宇宙は繰り返しではない永遠を、未定の未来を、自らの中に持ち始めており、それは新しい宇宙の始まりを意味しているのではないかと思う
 小さいと言うことは何も出来ないということではなく、あるいは全体に影響を及ぼすことなど出来ないということでもなく、例えば、人間において遺伝子という小さな存在が全体を決めるように、全体を決める力を持っている。宇宙の記憶を注ぎ込まれた生命はやがて宇宙そのものを決定していくのではないのだろうか。思考の出発点をそこに置くことで、新たなる「理解」を得る事が出来るのではないかという予感がする。

春だ

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 今年の冬は長く寒かった。でも今朝畑ではカジカが鳴き始めていた。春を告げる透明な鳴き声は妖精の囁きのよう。凍えていた心も溶かしてくれる。