しんどいこと

 本当の変化とはなかなか起きるものではない。また、誰かが起こすものでもない。何かが上手く動かなくなると,人はそれに変わるものを求めるようになる。オバマ米大統領が掲げた"Change"というスローガンはまさしくその現れであり,日本で起こった政権交代もそうであった。しかし、現在、多くの人は何の具体的な変化も現れていない事に失望を感じ始めている。政治も経済も,そして環境や人と人との関係性の総体としての社会についても、相変わらず同じ問題は提起され続けているが、具体的な解決策が提示されることもなく、事態が確実に悪くなっている事を示す様々な兆候が私たちの周りで現実化している。

それらの中でも現実としてはっきりしたのは、誰かが変化を起こす事を期待する事は出来ないという事だろう。オバマ米大統領にしても民主党にしても、変化すべき構造の中で自らの地位を築いてきたものたちであり,本質的な変化は自らの拠り所を失うことになる。それを彼らが望む事も実行する事もないことが明らかになったという事は確かにこれまでの変化を起こそうとしてきた事の大きな成果だろう。彼らが日々の生活を精一杯に生きている人たちとは全く異なる世界の住人である事がはっきりしたという事だ。幸いな事に、変化を望む人の多くは、これまでの構造のなかで、支配され,あるいは抑圧されてきた人たちである事だ。仮に経済や政治の構造が変化しようとも、失うものは少ない。ただ、構造に依存する事で得てきた気楽さは失われるだろう。また、変化の先にあるものが明らかでない事も不安だ。それが、現在のこの見渡す限りのこう着状態を生み出しているのだろう。

 この状態を打ち破る方法は、誰かに期待するのでも任せるのでもなく,自らの手で変化を起こして行く事だ。これは確かにしんどいことだろう。与えられることに慣れてしまった人は、それでも誰かが動かしてくれる事を望むか、あるいは批判する側に回って、何もせずにいる位置に自らを置こうとするかもしれない。しかし、事態はそのような傍観者でいる事を許さない時期に来ている。変化とは誰か特定の人が望んだり、計画することができるものではない。共に生きる人達が己を超えた視点を持つときに全ての人の中で生まれてくるものだ。

利害関係を超えた仲間を作ろう。お互いに助け合うことで実現することが出来る事を考えよう。そしてそれらを一つ一つ実現していこう。大きな変化はその先に必ず現れるはずだ。

自分の真実を表現することが、自を他と結びつける唯一の方法だ


 責任を負うことがないところで、ものを言うのはたやすい。それは、辞任しまった首相にも言えることだが、そのようにしか政治に参加することが出来ない私たち国民自身にも言えることだろう。例えば普天間基地の移転にしても、沖縄が犠牲になっているのは良くないと言いながら、誰も自分のところで引き受けようとはしなかった。基地そのものの存在が非であると思うのであれば、日米安保協定について議論し、不必要であることを多くの国民が認めるのであれば、それをアメリカに通告すればよい。アメリカが民主主義の国であろうとするのであれば、それは受諾せざるを得ないはずだ。多くの人は何故批判者にとどまろうとするのだろうか。確かにその方が楽で、しかも優越感を味わう事もできる。しかし、批判者が何かを作ることはない。ましてや時代を作ることなど決してないだろう。批判者ほど、一方で権力に依存して、権力を腐敗させるものもない。批判者ではなく、行動者であること。ガンジーの不服従もまた批判ではなく、行動である。行動は人を育て、そして共に行動することはお互いを育てる。政治が選挙だと思っている政治家に政治という行動はない。その様な政治家ばかりになってしまったのもまた、国民の側に共に行動し、育て合おうとする意志も実際の動きもなかったためだろう。それは国民を出来るだけ政治から遠ざけておこうとする愚かな政治家と公務員にその責の多くがあるにしても、その災いは現在私たちに降りかかってきている。昨年、選挙という行為によって一つの変化をもたらしたのは事実である。その変化に対して責任を持つのは実は政治家や政党ではなく私たち国民自身だろう。民主党が出来ないのであれば、あるいは既存の政党や政治家が出来ないのであれば、新しい政治体制の樹立も含めて私たち自身が知恵を出し合って行えばよい。幸いなことに、政治も経済も超えて、すでに文化づくりの芽は日本各地で出始めている。多くの心ある人達が、人の生きる場としての文化の大切さに目覚めて、自らの生活によって、新しい文化を築き始めているのだ。テレビや新聞の報道に引きずられて、時間を無駄に過ごすのではなく、新しい変革に向けて、多くの人と語り合おう。そこに本当に望む未来の姿は見えてくるだろう。現在求められているのは私たち自身が育て合うことだ。

活動

 活動とは意味を理解し、その意味を自らの生きることにおいて具体化することであり、それによって歴史という文脈に参加することだ。

 

蕩尽

 蕩尽とは何かを使い尽くすことではない。自分自身を一瞬一瞬において余すことなく使い切ることだ。そうすることだけが新たなる再生をもたらしてくれる。

 

 先日、関西パーマカルチャースクール卒業生の吟遊詩人の計らいで、てんつくマンが主宰する「元気の種夢楽」(http://gentanemura.org/)にお邪魔した。この村は小豆島にあって、てんつくマンに賛同した若者たちが、訪れる人に元気になってもらいたいと立ち上げたところだ。もともとは民宿か夏の家だったところを借りて、畑で作物を作り、風呂づくりや建物の改修、それに集会所の建設なども廃材を用いて自分たちで行っている。世界中の人が集まれるような場を目指しているとのことで、それが徐々 に形を成してきている。

 倒的だったのが、見させて頂いた映画「107+1天国は作るものpart 2」。途中から涙が止まらなかった。全ての命は、生きているだけで素晴らしいというメッセージ。全ての人に見てほしいと思う。そして、本気の歓迎ダンス。歓迎ナントカというのは基本的に照れてしまって、見ているのが辛くなるのだが、このダンスはとてもエネルギッシュで、形だけではない本当に受け入れ歓迎してくれている気持ちが素直に伝わってくるとても気持ちの良いものだった。彼らのように本気で未来に向かって生きている者たちと出会えることだけも、有り難いと思う。もう一度行きたい、いや何度でも行きたいと思う場が一つ増えた。

 素敵な人との出会いほどうれしいものはない。希望や可能性がいつもあるのだと教えてくれる。今年から、神戸北区の淡河にパーマカルチャー関西は事務所とモデル作りの場を持つことになったのだが、そのおかげで、たくさんの出会いを頂いている。昨日は、関西で開くパーマカルチャー実習コースの講師の打ち合わせで、摘み菜の会の平谷さんとお会いした。彼女と会うのは2度目で、最初にお会いしたときも、常に真摯に生きてきた、その時間の積み重ねを感じさせる、安心感と柔らかな優しさに驚きを覚えたが、今回はもっといろいろと話を伺うことが出来て、先に生きる人の存在に、強く励まされた。

 平谷さんは摘み菜の会(http://www.tsumina.net/)の代表で、野草と共に生きている。彼女には全ての野が自然から人への恵みに溢れた場に見えている。彼女の話を聞いていると、野の草に無駄なものなど何一つない。それは生態学的な意味だけではなく、人間が生きることにとってもだ。春の野に出てみれば、春の七草と言わず、全てが人の口に入って、人を健やかにしてくれることを教えてくれる。なんと生きることは楽しく、楽なことなのか。そして、そのように生きている彼女は自が自然と溶けあっていて、出てくる言葉は天の声として人の心を打つ。絶えることのない笑い声は、人と共にいる事本来の姿だろう。彼女と共に野を歩くことは、もう一度目を取り戻すことだ。欲の形でしかないものに囲まれている中に多くの人が失ってしまった目を。もっと多くの人に彼女に出会ってほしいと思う。世は時代が求める人を常に配してくれている。

このところ、動きが止まってしまった静けさを感じる。オバマ大統領の誕生や、衆議院選での民主党の勝利で、大きな変化が起きるのではないかと思っていたのが、現在まで、目に見える変化はなく、期待が大きかった分だけ落胆も大きく、かといって、戻りたいと思えるような以前でもないと言うことで、どうなるのだろうと、障子の影に潜んで様子をうかがっているという、そんな感じの静けさだ。期待したことが起こらなければ、それを起こせばいいだけのこと。変化は誰かが起こしてくれるのではなく、自分が起こすのだと言うことを学んでいる時期だとも言えるかもしれない。でも、待っていては何も起こらない。動き出そう。

え〜い

 日本は本当に元気をなくしてしまった国だなと思う。それは多分、価値観が一元化してしまった、あるいはある社会層が価値観を一元化しようとする動きにその原因がある。その典型が相撲での横綱の引退騒動であり、オリンピックでのスノーボードの選手の服装問題だろう。どちらも力士あるいは選手が行っている競技とは全く関係ないところが問題化されているのだが、共通しているのは、既存の価値観から外れる者たちに対する、言いがかり的なバッシングであり、それは既存の価値観にしがみつくことで自らの位置を守ろうとする者たちの威嚇である。スポーツや武道は、勝ち負けという明確な決着がつくところにその特徴と魅力がある。そしてそれに関わるものは勝つためにまさしく身を削るほどの努力をする。日常の全ての時間を勝つための修練に過ごすことで、初めて望む結果が得られる。その過程で余分なもの−怠惰や過剰−は、削ぎ落とされていく。そのようなものが付いているうちは決して勝つことはできないだろう。そのような状況の中に身を置いていない者たちの持っている常識も彼らにとっては必要がないものだろう。簡単に言えば、飲むことも食べることも常識の中にあるうちにはその競技において人を超え、それ故に人を感動させる行為を行うことなどできないということだ。世界一を目指す人たちは、まさしく非常識と言える日常を過ごすことで目的地へと進んでいるのだ。それは、ブクブクとした体と心で、人を批判することで自らの怠惰を誤魔化し、アイデンティティーを築こうとしている人が決して入ることのない領域だろう。はみ出すことのできる者だけが、新しい時代を築くことができる。それは、そのはみ出した本人が望むことというよりは、はみ出したところから見えてくる新しい景色に多くの人が気づくことによって起こることだ。違っていることを排斥するのではなく、それを認め、それによって起こる自らの変化から、未来を予感すること。未来の変化への希望だけが、閉塞した現状を打ち破るエネルギーとなる。変化を恐れるのではなく、積極的に起こしていくことが、変化を自らの望む方向へと導いていく唯一の方法でもある。

税金

 増税という方向に政治は進んでいるらしい。経済活動が減退すれば当然、個人や企業の収益や所得は減る。その結果として税金も少なくなるので、税率を上げるなどして、税金が減るのを食い止めて、国として使えるお金を確保しようと言うことらしい。ちょっと考えるとおかしなことなのだが、マスコミなどはいつものように政府のアピールをそのままに掲載して、増税の気運を高めることに協力しているようだ。国民の所得が少なくなれば、当然税金も少なくなる。国はその少なくなった収入でやりくりするは当然のことだろう。昨今の情勢を考えれば、これから景気が良くなるというか、不必要な消費が活性化したり、土地が投機により高騰して、経済が拡大するようなことはまず考えられない。むしろ、デフレも含めて、日本の実力に見合った経済規模に収束しようとしているのが現状だろう。国もその現状に合わせて、減っていく税金に合わせて行政を行っていけばよい。それで国民が困るようなことはない。困るのは、そのように一般の国民から吸い上げた税金に群がって自らの収益を確保しようとする大企業やそれに寄生する政治家たちだけだろう。少ない税金で国民の生活をより豊かにすることこそ政治家や国民の公僕である公務員がまず考えなければならないことであろう。そこで考えられるのは、まず政治家や公務員の給与のカットだろう。バブルの頃に比べれば、現在国に支払われている税金はほぼ半分ほどだろう。収入が減れば支出を減らすのはどこの企業でもあるいは家庭でも行っていることだ。収入が減った分だけ減らすのであれば、公務員の給与は半分でよい。現在国家予算中の国家公務員人件費はだいたい10%だから、それで、2兆円以上が削減できる。それに様々な政府関連団体の人件費も考えれば全体で4兆円程度は削減できるだろう。政治家は全てボランティアでよい。これで、年間約250億円削減できる。政治家の給与は全て個人寄付とする。ちゃんとした仕事をしている政治家には寄付が集まり、していない政治家には集まらないので、より国民のための仕事をする政治家が増えるだろう。誰が寄付したのか政治家にはわからないような仕組みを作れば、政治家と金の関係もなくなるだろう。後は、様々な個人の生活に関わることは、全て地域に互助システムを作ってそこに任せればよい。講や結いなどの互助システムは今でも沖縄などでは機能しており、それが、沖縄の住みやすさや経済によらない生活の安心感を生み出している。国民一人一人が自分の生活の面倒を自分でみるようになれば、国や地域の行政が行わなければならない仕事などほとんどなくなるだろう。そうすれば、公務員の数も今よりもずっと減らすことができる、公務員を職と考え、雇用の機会が減ったというのであれば、ワークシェアリングを行い、食べ物や住まいの自給自作により多くの時間を使うようにすれば、生活の質はかえって高くなるだろう。マルクスが望んだように現代の国民は一人一人が社会化できるだけの基本的な理解と情報を持つことができる。それができていないのは、国とその権力に依存するものがそのような教育を行わないようにしているからだと言える。人間一人一人が社会化すれば、お金がかかる行政システムなどなくても、人々が社会という視点を持って協働していくことで、国としては貧しくても国民一人一人の生活は豊かな社会が実現するだろう。自らの失政のツケを国民に払わせるような増税論議を恥じない政治家に何を望むことができるだろう。