え〜い
日本は本当に元気をなくしてしまった国だなと思う。それは多分、価値観が一元化してしまった、あるいはある社会層が価値観を一元化しようとする動きにその原因がある。その典型が相撲での横綱の引退騒動であり、オリンピックでのスノーボードの選手の服装問題だろう。どちらも力士あるいは選手が行っている競技とは全く関係ないところが問題化されているのだが、共通しているのは、既存の価値観から外れる者たちに対する、言いがかり的なバッシングであり、それは既存の価値観にしがみつくことで自らの位置を守ろうとする者たちの威嚇である。スポーツや武道は、勝ち負けという明確な決着がつくところにその特徴と魅力がある。そしてそれに関わるものは勝つためにまさしく身を削るほどの努力をする。日常の全ての時間を勝つための修練に過ごすことで、初めて望む結果が得られる。その過程で余分なもの−怠惰や過剰−は、削ぎ落とされていく。そのようなものが付いているうちは決して勝つことはできないだろう。そのような状況の中に身を置いていない者たちの持っている常識も彼らにとっては必要がないものだろう。簡単に言えば、飲むことも食べることも常識の中にあるうちにはその競技において人を超え、それ故に人を感動させる行為を行うことなどできないということだ。世界一を目指す人たちは、まさしく非常識と言える日常を過ごすことで目的地へと進んでいるのだ。それは、ブクブクとした体と心で、人を批判することで自らの怠惰を誤魔化し、アイデンティティーを築こうとしている人が決して入ることのない領域だろう。はみ出すことのできる者だけが、新しい時代を築くことができる。それは、そのはみ出した本人が望むことというよりは、はみ出したところから見えてくる新しい景色に多くの人が気づくことによって起こることだ。違っていることを排斥するのではなく、それを認め、それによって起こる自らの変化から、未来を予感すること。未来の変化への希望だけが、閉塞した現状を打ち破るエネルギーとなる。変化を恐れるのではなく、積極的に起こしていくことが、変化を自らの望む方向へと導いていく唯一の方法でもある。
税金
増税という方向に政治は進んでいるらしい。経済活動が減退すれば当然、個人や企業の収益や所得は減る。その結果として税金も少なくなるので、税率を上げるなどして、税金が減るのを食い止めて、国として使えるお金を確保しようと言うことらしい。ちょっと考えるとおかしなことなのだが、マスコミなどはいつものように政府のアピールをそのままに掲載して、増税の気運を高めることに協力しているようだ。国民の所得が少なくなれば、当然税金も少なくなる。国はその少なくなった収入でやりくりするは当然のことだろう。昨今の情勢を考えれば、これから景気が良くなるというか、不必要な消費が活性化したり、土地が投機により高騰して、経済が拡大するようなことはまず考えられない。むしろ、デフレも含めて、日本の実力に見合った経済規模に収束しようとしているのが現状だろう。国もその現状に合わせて、減っていく税金に合わせて行政を行っていけばよい。それで国民が困るようなことはない。困るのは、そのように一般の国民から吸い上げた税金に群がって自らの収益を確保しようとする大企業やそれに寄生する政治家たちだけだろう。少ない税金で国民の生活をより豊かにすることこそ政治家や国民の公僕である公務員がまず考えなければならないことであろう。そこで考えられるのは、まず政治家や公務員の給与のカットだろう。バブルの頃に比べれば、現在国に支払われている税金はほぼ半分ほどだろう。収入が減れば支出を減らすのはどこの企業でもあるいは家庭でも行っていることだ。収入が減った分だけ減らすのであれば、公務員の給与は半分でよい。現在国家予算中の国家公務員人件費はだいたい10%だから、それで、2兆円以上が削減できる。それに様々な政府関連団体の人件費も考えれば全体で4兆円程度は削減できるだろう。政治家は全てボランティアでよい。これで、年間約250億円削減できる。政治家の給与は全て個人寄付とする。ちゃんとした仕事をしている政治家には寄付が集まり、していない政治家には集まらないので、より国民のための仕事をする政治家が増えるだろう。誰が寄付したのか政治家にはわからないような仕組みを作れば、政治家と金の関係もなくなるだろう。後は、様々な個人の生活に関わることは、全て地域に互助システムを作ってそこに任せればよい。講や結いなどの互助システムは今でも沖縄などでは機能しており、それが、沖縄の住みやすさや経済によらない生活の安心感を生み出している。国民一人一人が自分の生活の面倒を自分でみるようになれば、国や地域の行政が行わなければならない仕事などほとんどなくなるだろう。そうすれば、公務員の数も今よりもずっと減らすことができる、公務員を職と考え、雇用の機会が減ったというのであれば、ワークシェアリングを行い、食べ物や住まいの自給自作により多くの時間を使うようにすれば、生活の質はかえって高くなるだろう。マルクスが望んだように現代の国民は一人一人が社会化できるだけの基本的な理解と情報を持つことができる。それができていないのは、国とその権力に依存するものがそのような教育を行わないようにしているからだと言える。人間一人一人が社会化すれば、お金がかかる行政システムなどなくても、人々が社会という視点を持って協働していくことで、国としては貧しくても国民一人一人の生活は豊かな社会が実現するだろう。自らの失政のツケを国民に払わせるような増税論議を恥じない政治家に何を望むことができるだろう。
変わるべき時
最初はテレビだったと思う。コンピューター特にインターネットの登場以来,選択の余地が少なく,一方向的でしかないテレビが時代から離れて行くのを感じた。それは多分、テレビとコンピューターの機器としての違いというよりは寧ろ,それを拠り所としている人々の考え方の違いから生じているものであり,テレビというメディアを支配し,あるいは寄りかかっていた人や企業の傲慢な古さのためだった。既に人は変化を感じて,それに併せて,意識的、無意識的に、選択や行動の基準を変えており,それはメディアだけではなく,食べ物や服装ばかりでなく,政治や経済の分野にまで及んでいる。ただ、古い世界で権力を弄んできた政治家や,官僚,そしてメディアが自らの権益を守ろうとしてか、あるいは変わる事を拒んでか,それとも未だに変わる事を認めることができないためか,旧態依然としての言動を繰り返している。先の選挙で民主党が勝利したのは国民に支持されたからではない。国民が望んだのは変わる事であり,その変化を民主党に託したに過ぎない。しかし、元々一つであった自民党と民主党がそれほど変わっている訳もなく、選挙のときに変化を感じさせた政策のほとんどは、ほとんど実行される見通しがなくなってしまった。しかも、それを報じるメディアにも全く姿勢の変化はない。正義の味方を演じているようでいて,結局は権力の一部として、批判というガス抜きを行っている。国民が望んでいるのはこれら全ての変化である。そしてこの変化だけが、希望ある未来へと続くことを感じている。先ずは約束を守るという単純な事が、最も期待される変化だろう。公約はそれを行うときに起こる混乱や抵抗がどうであれ,一度は実施してみる。その約束が守られる事から,人の間の不信を前提とした関係も変わるだろう。マスコミも批判ではなく,提案の媒体としての機能を持ち始めるべきときだろう。しかも、提案するのは政府や企業ではなく国民の側だ。すなわち国民の意見や生活からの提案の場であれば良い。行政にしても、政治家ではなく,国民の直接の声により忠実に反応するという本来の役割に戻るべきときに来ている。変化は既に予兆ではなく現実となっている。変化を見ない振りをするのではなく、それに着実に対処する事が変化の後に来る時代における夫々の地位を決定する事を、危機感を持って認識しなければならない。
存在が許されない程の純粋さだけが時代を砕くのだろう
魔物
鶏はとても大切な農場の一部。パーマカルチャー農場ではパイプで編んだチキントラクター(現在休止中)と果樹園との組み合わせで、卵を産んでもらうだけではなく、様々な役割をしてもらっている。しかし、鶏を生き続けさせるのが結構難しい。鳥インフルエンザなどではなく、野生動物達との共存だ。センター農場のすぐ裏は山。そこには多分日本にいる野生動物の8割ぐらいが生息しているだろう。鶏を狙ってやってくるのはイタチ、狐、狸、ハクビシン、テンなど。それに捨てられて野生化した猫や犬もいる。彼らのほうが生きることに必死なので、これまでに何度か全滅の憂き目に遭っている。今年も3月に雛を30羽程入れて育ててきたのだが、途中猫などの侵入もあって25羽程になったのが9月。柵の上に猫返しをつけてこれで猫も入れないから大丈夫と思っていたところ魔物が現れた。鶏を襲って頭と心臓だけを食べて行く。一度姿を見かけたのだが、森の中に飛んで逃げて行った。しかし、カラスとは明らかに違う。あまり羽ばたくふうもなく、果たして鳥であったかも確認できなかった。取りあえず上から入られないようにとの対策で、テグスを全面に張る。だいたい15cm間隔で張ったのでもう大丈夫だろうと思っていたのだが、それでもさらに1羽がやられた。鳥が飛んで入れるはずはない。しかし、飛んで逃げている。ムササビかとも思ったが下から上へ飛べるとも思えない。魔物だ、とちょっと期待していたところその正体が判明した。
「設楽さん魔物が鶏小屋にいます」とスタッフの山本君から電話が入った。「トンビですよ。逃げ出せないところに確保したので、どうしましょう」「殺すしかないよな」「ですよね。」「私も行くから」と言った会話があって、撲殺のための棒を持って鳥小屋に行ったところ。その魔物はトンビではなくオオタカだった。といっても実際にオオタカを見たことはなかったのでネットで検索して調べてみると間違いなくオオタカ。さらにPCCJ講師をお願いしている専門家のIさんとTさんに電話。どう処分すべきか相談したところ、自然至高主義のIさんは「オオタカに食べてもらえるなんて鶏も光栄ですよ。撲殺なんてとんでもない。早く逃がしてあげなさい」と、農民の悲哀は遥か彼方。で、しばらく鶏の遊び場の網にぶら下がっているオオタカとにらめっこ。「オオタカって絶滅危惧種だよな」「確かそうですよ」調べてみると絶滅危惧種第2種とされている。準絶滅危惧種らしい。しかも環境アセスなどのときの指標動物でもあるようだ。「殺すとまずいのかな」「まずいでしょうね」「でもこいつだよな」「こいつですね」と思案のあげく、「でもきっとこれで懲りて、もう来ないでしょう」「野生動物は用心深いしな」と、逃がすことに。あとでTさんから「オオタカは懲りないのでまた来ますよ。ハハハハ」との連絡をいただいたのだが、時既に遅し。それでも、その後は鶏が襲われることはなくなった。めでたしめでたし。
生きるとは自分の望むことを一つ一つ実現することに他なるまい。一瞬一瞬において自らの主体であること。規則や習慣あるいは自分ではないものが決めたルーティーンに従うのではなく、常により良いものを作り出すという自らの意志のもとに創造的であること。そこに見いだすのは無限な自己の可能性であり、それを一つ一つかたちにして行く喜びである。その喜びがさらなる生きる力を生み出して行く。奴隷的な従属と引き換えに手に入れる安楽さと偽りの安心の中に埋没する人はその生きる力を失って明確なかたちのない「人のような存在」へと化してしまう。今すべきことは何であるのか、それを知らぬものなどいまい。知りながらそれをしないでいることが生きることから自らを遠ざけてしまっている。自然の厳しさとは生きることへと誘う力だ。それは生を望むものに取ってはこの上ない優しさでもある。生きる機会は常に与えられている。
こつなぎ
伊豆の入り会い村を主催する菊池さんが完成させたドキュメンタリー映画「こつなぎ」の試写会に参加させていただいた。東京にはあまり行く気がしないせいなのか、いつも電車に遅れたり、電車が遅れたりするのだが、今回も予定の電車に遅れてしまい、映画が始まってからの到着となった。場所は京橋の映画美学校とあったが、既に管理者も見捨ててしまったレトロな片倉ビルの中の多分は100席程の映画館だった。東北の山中の寒村の写真と時にフィルムが映し出される中、淡々と男性のナレーションが続いて行く。内容は入会権の正当性を争っての三代にわたる裁判闘争を縦軸に、小繋村の生活の様子、そしてこの裁判に関わる人たちの様子が横糸として編みこまれて行く。そして、織り出されるのは単なる土地の所有権争いではなく、権力とそれに依らずに生きようとする人々との間との闘いの中で露になる正義の姿であり、それにより紡ぎ出される文化本来の在り方である。
正義のために闘わなければ、利のみが優先され、自然も文化も滅んで行く。現在私たちが、正面に見据えなければならないのはその現実だ。しかし、多くの人は、それを見ようとせずに、「闘うべきではない」等と分かったように言う。傍観という平和主義は現状が悪化して行くのに対して何の力も持ち得はしない。闘うことで、たとえそれが最終的に敗北や妥協で終わったとしても、変えなくてはならないことと引き継ぐべきことが明確になり、それが文化を築き続ける拠り所になる。
この映画を是非、多くの若者とあきらめて闘うことを止めてしまった大人達に見てほしいと思う。引き継いで行かなくてはならないものがあることを、知って欲しいと思う。
勇気とは解体し始めた自己を、もう一度文脈のある総体へとつくり直すエネルギーのことだ